それは本当に些細な違和感から始まりました。三十歳を過ぎたばかりの私は、仕事にも慣れ、プライベートもそれなりに順調な毎日を送っていました。髪のことで悩むなんて、まだまだ先の話だと思っていたのです。しかし、ある朝、洗面台の鏡の前で髪をセットしている時、ふと前髪をかき上げた自分の額が、なんだか以前より広く見えることに気づきました。特にこめかみの部分が、少し後退しているような気がしたのです。気のせいだろう、寝癖のせいだ、昨晩飲みすぎたから顔がむくんでいるだけだ。私はそう自分に言い聞かせ、その日は何とか会社へ向かいました。しかし、一度気になり始めると、もうダメでした。会社のトイレの鏡、ショーウィンドウに映る自分の姿、あらゆる場面で自分の生え際を無意識にチェックするようになってしまったのです。友人との会話中も、相手の視線が自分の額に注がれているような気がして、落ち着かなくなりました。家に帰ると、過去の写真を引っ張り出してきては、現在の自分と見比べる日々。写真の中の数年前の自分は、確かに今よりも生え際が前にあり、髪も密集していました。現実を突きつけられ、心臓が冷たくなるのを感じました。インターネットで「生え際、後退、若者」と検索すると、そこには「AGA」という三文字が嫌というほど表示されました。読めば読むほど、自分の症状と一致する項目ばかり。遺伝、男性ホルモン、進行性。希望を打ち砕くような言葉の数々に、深い絶望感と焦りがこみ上げてきました。このまま何もしなければ、数年後にはどうなってしまうのだろう。そんな恐怖に駆られ、私は専門のクリニックのウェブサイトを震える指で開いていました。あの日の鏡の中の小さな違和感は、私の人生における大きな転機を知らせるサインだったのです。